LOGIN最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。
忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。
目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。
空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。
星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。
誰かの名前。
誰かの声。
誰かが確かに生きていたという証。
そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。
「……レオン様」
リリアは身体を起こしながら呼びかけた。
返事はない。
胸の奥が急速に冷えていく。
「レオン様!」
今度はもっと大きな声で呼んだも
最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。 誰かの名前。 誰かの声。 誰かが確かに生きていたという証。 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。「……レオン様」 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。 返事はない。 胸の奥が急速に冷えていく。「レオン様!」 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。 第一王子も、ノクスもいない。 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。『誰だ』 たった一言だった。 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。 それでも怖かった。 今までは、自分が忘れる側だった。 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。 けれど今度は、レオンが忘れた。 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。「今度は、私が呼ぶ番ですね」 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。 その
「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見
決戦から七日が過ぎた朝。 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。「エドガー・ハインツ」 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。「北方第三鉱山、運搬員」 紙をめくる。「妻と、二人の子供……」 セドリックはそこで言葉を止めた。 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。 年齢。 職業。 家族。 行方不明になった日。 遺体が発見された場所。 判明している限りの情報が記されている。 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。 エドガー・ハインツ。 三十九歳。 妻と子供を養うため。 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。 黒鴉会の者たちに拉致され。 術式の実験体として王都へ送られた。 帰りを待っていた家族へ。 遺体すら返らなかった。 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。「……次を」 向かいに立つ記録官が戸惑う。「殿下」「次を読め」「しかし、すでに二刻以上」「読め!」 声を荒らげた瞬間。 胸に激痛が走った。「ぐっ……!」 セドリックは身体を折り曲げる。 包帯の下。 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。「呼ぶな」「ですが」「この程度で止めれば」 息を切らしながら。 セドリックは名簿を見る。「私はまた、逃げる」「殿下はまだ治療中です」「だから何だ」「倒れてしまえば、裁判へも」「倒れれば起こせ」
決戦から、三日が過ぎた。 王都はまだ、夜明けを取り戻したばかりのような顔をしていた。 王宮北部の一帯は封鎖され、崩落した地下区画の調査が続いている。 石畳には亀裂が残り。 一部の建物には黒霧が通り抜けた痕跡が、煤のように刻まれていた。 けれど、空は青い。 市場には少しずつ人が戻り。 パン屋からは焼きたての香りが漂い。 道端では、子供たちが藍色の狼を描いて遊んでいる。「夜の狼が、悪い霧を食べたんだって!」「違うよ。銀狼公爵が神様になったんだよ」「月華の聖女様と結婚して、王様になるんだって!」 公爵邸へ向かう馬車の中。 窓の外から聞こえた言葉に、リリアは咳き込んだ。「け、結婚して王様に?」 向かいに座るレオンは、眉間へ深い皺を寄せている。「訂正させる」「どの部分をですか?」「すべてだ」「結婚も?」「……そこは」 レオンは言葉を止めた。 リリアは首を傾げる。「そこは?」「今は噂の話をしている」「はい」「王になるつもりはない」「結婚は否定しないんですね」 馬車の中に沈黙が落ちた。 レオンは窓の外へ顔を向ける。 耳が少し赤い。 リリアはそれ以上追及せず。 小さく笑った。 すると、足元の影から夜色の頭が現れた。『人の噂とは奇妙だ』 ノクスである。 今は大型犬ほどの姿で、レオンの影を出入りしている。 決戦直後より力が戻ってきたらしく。 以前は輪郭が透けていた身体も、今では星空の毛並みがはっきり見える。「どのあたりがですか?」『我が霧を食べたという部分だ』「食べてはいませんね」『あれは痛みと記憶の残滓だ』 ノクスは不満そうに鼻を鳴らす。『食物と同列に扱うな』「子
夜が明けても、公爵邸に静けさは戻らなかった。 庭園には救出された人々が横たわり、芝生の上へ白い布と毛布が敷き詰められていた。 兵士。 研究者。 北方の村人。 黒鴉会に属していた者。 王宮の使用人。 敵も味方も関係なく、意識のある者から順に治療を受けている。 屋敷の使用人たちは湯を沸かし続け、騎士たちは負傷者を運び、ミアは泣きそうな顔をしながら薬品と包帯の間を走り回っていた。「こちらの方、脈が弱いです!」「温めてください!」「黒霧を吸い込んでいます!」「水を飲ませないで。先に呼吸を整えます!」 リリアは芝生へ膝をつき、一人の少女の胸へ手を当てていた。 北方で行方不明になっていた村人の一人だ。 まだ十歳にも満たない。 冷え切った手。 青ざめた唇。 呼吸は浅い。 だが、胸の奥には確かに命が残っている。「聞こえますか?」 少女の耳元で呼びかける。 反応はない。 リリアは指先へ月華を灯した。 淡い光が少女の胸へ沈んでいく。 以前のように、身体の中へ無理に入り込み、黒霧を自分へ引き受けることはしない。 黒い力がどこから入り。 どこへ帰ればいいのか。 ただ、その道を照らす。 少女の胸元から、細い黒霧が浮かび上がった。 それは空へ昇らず。 リリアの隣へ漂っていく。 そこに藍色の小さな光が現れた。 ノクスの力。 黒霧は夜色の光へ包まれ、静かに薄れていく。 消えたのではない。 痛みの形を失い。 夜の一部へ戻っていったのだ。 少女の身体が小さく震える。「……お母、さん」 掠れた声。 リリアは息を吐いた。「大丈夫です」 少女の手を握る。「もう帰れますよ」
爆発は、音より先に光として訪れた。 赤。 黒。 そして、深淵の底を思わせる藍色。 三つの光が月蝕の間を呑み込み、天井も、祭壇も、黒い水面も、一瞬で見えなくなる。「リリア!」 レオンの声。 次の瞬間、強い腕がリリアの身体を抱き寄せた。 背中へ回された腕。 胸元へ押しつけられる頬。 レオンの鼓動が、激しく響いている。 リリアは反射的に彼の軍服を掴んだ。「レオン様!」「俺から離れるな!」「はい!」 爆風が二人を襲う。 熱ではない。 凍えるほど冷たい衝撃だった。 黒霧と深淵の残滓が、無数の刃となって広間を駆け抜けていく。 レオンの背後に、巨大な銀狼の影が現れた。 その輪郭を縁取るのは、夜空のような藍色の光。 ノクスの力。 銀狼は二人を覆うように身を伏せ、黒い刃を受け止める。 だが衝撃はそれだけでは終わらなかった。 床に刻まれた赤い魔法陣が次々と砕け、割れ目から黒い炎が噴き上がる。 円形の祭壇が大きく傾いた。 水中へ沈められていた人々の身体が、崩壊する術式へ引き込まれていく。「人が沈んでいます!」 リリアが叫ぶ。「先に防壁を!」 レオンは銀狼を維持したまま、剣を床へ突き立てた。 藍色の光が波紋のように広がる。 傾いた祭壇の縁で踏みとどまっていた第一王子も、剣を掲げた。「全員、中央へ集まれ! 負傷者を優先しろ!」 直属騎士たちが黒い水へ飛び込み、意識を失った者を抱え上げる。 ユリウスは両手を床へ当て、崩落を防ぐ術式を展開していた。「長くは持ちません!」「地下全体の支柱が崩れています!」「出口は!」 第一王子が叫ぶ。「来た道は塞がれました!」「転移術式も黒霧に乱されています!」 マルタが黒い水の中